歳を取ったと思うとき
新年
新しい年を迎えました。
また一つ歳が積み上がりました。
「おじさん図鑑」。
この本を買ったころから早10年以上経過しました。
今では、おじさんに一字加えた おじいさんの歳になりました🤣
身体の老化のブログではありませんよ
年齢を重ねるにつれて身体には変化があります。
歳を取ったと思うときのブログ。
足腰や膝が痛い、通院している、物忘れをするようになった等々が題材だと後ろ向きになりそうなので身体以外のことを話題にします。
ものの呼び方について
身体以外で歳を取ったと思うのは もの(物)の呼び方です。
乳母車
孫が生まれて成長するにつれ色んな赤ちゃん用の製品が登場します。
赤ちゃんのおしめが紙おむつになったのは随分前から経験していましたので横に置いて話を続けます。
最初に歳を取ったと思ったモノはベビーカー。
孫を連れて “乳母車で散歩に” と言ったとき、ベビーカーという言葉が返ってきました。
そうか、”乳母車” は時代遅れの言葉なのか……。
確かに乳母車とベビーカーには構造的な違いがありますし、孫のそれは安全ベルト(シートベルト)も備えたベビーカーですが、ついつい ”乳母車” が口から。
歳を取ったな😅
汽車
国鉄、否、JRの列車をついつい汽車と呼んでしまいます。
電車
街を走っている電車は “電車” と呼びますし、
新幹線
新幹線はもちろん “新幹線” と呼んでいます。
北陸新幹線が金沢に延伸したときの記念グッズがありました。
裏は ひゃくまんさんです。
もっとも私が初めて乗った新幹線は確かこの形式の時代です。
蒸気機関車
もちろん蒸気機関車に乗ったことがある年齢です。
どうして汽車と呼んでしまうのかな
私の頭の中の ”汽車” のイメージは、シュッシュッポッポッと蒸気と煙を吐きながら走る蒸気機関車です。
前の東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)前後には北陸本線も電化、複線化が進んでいましたから、蒸気機関車に乗る機会は少なかったはずなのに…。
当時の国鉄で輪島や珠洲に行くときも蒸気機関車ではなくディーゼル機関車でした。記憶では確か…。
ついつい汽車と呼んでしまうのは………。
答えは次のブログにありました。
父との思い出が焼き付いているんでしょうね。
金沢駅の変遷
金沢駅の変遷です。
1898年(明治31年)に初代の駅舎が完成。停車場として建設。
停車場という言葉も聞きませんね。
そして皆さんご存知の現在の金沢駅です。
金沢駅関連のブログを二つばかり。
父との思い出が多い駅舎
1954年(昭和29年)に完成した4階建ての駅舎。現在の一世代前の金沢駅です。
個人的にはこの駅舎を東京(上野駅)へ行くのに一番利用しました。
年寄りですが次の写真ほど古い時代ではありませんよ。
東京(上野駅)へ向かう私を見送りに来た父。
発車時間待ちの間、父に誘われて黒百合でおでん。思い出の多い駅舎です。
父との思い出はセピア色
このブログの題名「ものの呼び方について」と入力したときに思い出したのは父の蔵書。
その中に「ものの見方について(笠 信太郎著)」という本がありました。読んではいませんがこういった機会にフッと…。
幼いころの父との思い出は、記憶も写真もセピア色です。
湿っぽくなりました。
歳を取ったな😢
貴社の記者が汽車で帰社した
因みに ”汽車” という言葉が時代遅れとなったので、
貴社の記者が汽車で帰社した、という言葉遊びはもう使えませんね。
ジーパン、Gパン
ジーンズ
ジーンズ、デニムパンツなどと言われてもしっくりこない年代です。
学生時代にはストレート、ベルボトム、スリムの “ジーパン” を穿いていた年寄りです。
幼稚園のころから つなぎを着用していた年寄りですので、あくまで “ジーパン” です。
オーバーオール???
大乗寺山
古い写真ですが、つなぎを着用しています。大乗寺山にて、と父の筆跡。
今の山側環状線や、円光寺住宅の山沿い、山側環状線に接した住宅辺りが小学校低学年には絶好のスロープでした。
カラー写真が一般に広く普及したのは1970年代半ばになってからのことだそうですから、私の年齢では幼少期は白黒写真ですね。
昔の写真事情を次のブログで少し取り上げたことがあります。
Gパン
実はジーパンという単語を手書きすると、Gパンという表記が多くなる私です。
何故?
アメリカ文化センター
1952年(昭和27年)に全国の幾つかの都市に設置されたアメリカ文化センター。
このアメリカ文化センターが ”Gパン” 表記の遠因だと思います。
戦後、連合軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が日本統治政策として、教育・宗教・芸術などの文化戦略として設置した図書館が、講和条約の発効により米国大使館管理下のアメリカ文化センターに引き継がれました。
実はそのアメリカ文化センターが金沢にもあったのをご存知でしょうか。
私の年代でも知っているような知らないような…。
下記WEBサイトが詳しいですよ。
金沢のアメリカ文化センターは、1967年(昭和42年)に閉鎖されるまで現在の石川県社会福祉会館の場所にありました。旧石川県立図書館の隣のこの場所です。
映画会、展覧会、英会話教室などの人事交流事業に重点をおいていたそうで、幼いころに、ここだったかYMCAだったか記憶が定かではありませんが、英会話の教室に通った記憶があります。
ヴィレッジ・ピープル(Village People)
話が飛びます。
YMCAという単語が登場しましたが、わが家にはY.M.C.A.のレコードがあります。
西城秀樹さんのカバー曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」もヒットしましたね。
ヴィレッジ・ピープル(Village People)のY.M.C.A.の内容を知ったのは、かなり、かなり後です。
このドーナツ盤は買った記憶がありません。誰が買ったんだろう🙄
再度、Gパン
話を戻します。
父からアメリカ文化センターという名前を何度も聞きました。
その絡みで つなぎのジーパンも?
進駐軍のお下がり⇒G.I.のパンツ⇒Gパンと記憶したのかも。
当時、キリスト教系の幼稚園に通っていました。あくまで幼稚園児の記憶ですが、宣教師の子どもだという外国人の園児(男の子)がいました。確かジョン・何某。
また話が飛びますが、その子のトーストに色々挟んだ昼食が羨ましくて母親に強請ったことがあります。トースターなぞ家にありませんでしたので、母は食パンを魚の焼き網で焼いたようです。食パンには綺麗に網の焦げ跡。
いざ昼食。ジョン・何某の笑い声が響き渡りました。今となれば懐かしい思い出です。
話を戻します。
G.I.ではありませんが宣教師やアメリカ文化センターなどの関係者が家族で金沢市内に住んでいたんでしょうね。
そう考えれば、私が穿いていた子供用の つなぎの説明もつきます。
幼稚園のころか…。
歳を取ったな😅
まだまだ沢山ありますが、今回はここまで。