旧石川銀行橋場支店の続き
昔の金沢文芸館付近と現在
古い絵葉書がありました。現在の橋場町の交差点辺りから見た尾張町方向の町並です。
絵葉書左側の赤い屋根の建物は、昭和4年(1929年)に建て替えられて、現在の金沢文芸館の建物になっています。
絵葉書には電車。
金沢に電車が走ったのは、幼い頃の中原中也が金沢を去って5年後の大正8年(1919年)ですから、赤い屋根の建物が建て替えられるまでの、ほんの10年の間の風景ですね。
ほぼ同じ方向を撮った写真がありましたので。
枯木橋
金沢文芸館前にある枯木橋には「明治廿五年四月架」の文字が刻まれています。
この橋は惣構(城下町を囲い込んだ堀や、堀の城側に土を盛り上げて造った土居などの防御施設)の堀の上に架けられた橋とのこと。
惣構の発掘調査
橋の近くでは惣構の発掘調査が行われました。
金沢市内では、堀だけではなく升形などの発掘・復元も行われています。
ブラタモリでも取り上げられていましたが、観光客に人気の近江町市場を歩くと、惣構の土居を崩したり堀を埋め立てたりした痕跡(段差)があります。
市場にあるスーパーの中が分かりやすいと思います。
また、南町から近江町市場へ続く裏通りも、平行して走る二本の道が段差になっているなど、惣構の名残が。
当時の尾張町は金沢の中心
金沢文芸館近くの写真館前にある「石川縣 里程元標 加賀國 金澤尾張町」が目立ちます。
その横には、明治41年に金沢で最初に尾張町にガスが供給されたことを示すため復元された当時のガス燈も設置されています。
当時の尾張町の繁栄ぶりが想像できますね。
尚、ひがし茶屋街などではガス燈が復刻されています。
町民文化館
金沢文芸館は、高岡銀行橋場支店として建築され最後は石川銀行橋場支店でしたが、平成12年(2000年)に石川銀行が破綻した後、金沢市の所有となっています。
金融機関繋がりで、武蔵ヶ辻方向へ400mほど移動して石川県立尾張町町民文化館へ。
町民文化館。ネーミングはちょっと…。
まぁ、それは置いといて。
ん? 町家?
明治40年(1907年)に金沢貯蓄銀行として建てられた石川県有形文化財の建物です。
ご覧のとおり外観は和風ですが、中に入ると…。
合併により北陸銀行尾張町支店になりましたが、昭和51年(1976年)に北陸銀行から県に寄贈され現在に至っています。
驚き その1
寄贈。
町民文化館は、北陸銀行が石川県に寄贈した建物です。
同じ金融機関絡みでも寄贈と経営破綻…。
まぁ、何れにせよ歴史ある建物が保存された訳ですから良しとしましょう。
驚き その2
それよりも昭和51年までこの建物で銀行が営業していたことに驚きます。
記憶では、当時はキャッシュディスペンサーなど、銀行のコンピューター化が進んでいた時期です。
北陸銀行のウエブサイトで確認すると、寄贈する三年前の昭和48年には、この銀行の全支店のコンピューター化が完了しています。
いかに内部は洋風とはいえ、コンピューターや電源の配線を張り巡らすのは大変だったでしょうね。何しろ明治40年(1907年)の建物ですから。
もう一度さっきの写真をどうぞ。
尚、町民文化館は平日は開いていません。念のため。
と、ここまで進めましたが孫が遊びに。
2歳近くなると何にでも興味を持ち、歩き回って身体で確認します。放っておくと危険なので、“じぃじ” はそっちへ。
ではまた。