金沢の思ひ出 中也の原点
中原中也の詩を好きな方は多いと思います。私も好きな詩人の一人です。
軍医だった父親の異動で、1912年(大正元年)の末から1914年(大正3年)の間、中也は幼少期(5歳から7歳の時期)を金沢で過ごしました。
それから20年後、1932年(昭和7年)に中原中也は金沢を訪れて幼い日々の思い出を辿り、「金沢の思ひ出」という随筆を書いています。
近所の友達との思い出、軽業(サーカス)の思い出、幼稚園の思い出などが生き生きと描かれています。
多感な幼い頃の金沢での思い出が、後々、中也の詩に影響を与え、中原中也の原点とも言われているようです。
昭和7年ごろの地図に、中原中也の随筆「金沢の思ひ出」に登場する場所を番号付けしました。
中也の思い出の地 金沢で、中也の原点を旅しましょう。
(地図の❾金沢21世紀美術館と⓬しいのき迎賓館には、位置関係が分かりやすいように現在の建物名にしてあります。)
寺町
住居跡
“私が金沢にゐたのは大正元年の末から大正三年の春迄である。住んでゐたのは野田寺町の照月寺(字は違つてゐるかも知れない)の真前、犀川に臨む庭に、大きい松の樹のある家であつた。”
(出典:中原中也「金沢の思ひ出」)
先ずは、幼い中也が住んでいた 金沢の寺町(当時は野田寺町)です(地図❶)。
中也が住んでいた金沢市の寺町は、金沢市の南部、犀川沿いの台地に位置します。加賀藩が一向一揆などの有事に備え、出城とするために意図的に多くの寺院を集めた町です。今でも多くの寺院があります。
中也は寺町の一角に住むことになり、この町で数多くの思い出を残しました。
大正元年(明治45年)から大正3年(1912~1914年)、中也が5歳から7歳の時期です。住居の跡地は、今では寺町5丁目緑地(地図❶)という公園になっています。
叱られて弟と吊り下げられたという松がどれかは分かりませんでしたが、犀川を臨む公園からの眺めは、多分、昔と変わりはないと思います。園内には「金沢の思ひ出」の一節が碑になっていました。
松月寺
公園の向かいには、中也が
“照月寺(字は違つてゐるかも知れない)”
(出典:中原中也「金沢の思ひ出」)
と書いた松月寺(地図❷)があります。
このお寺には松月寺の大桜と呼ばれる、樹齢400年とも伝えられている国指定天然記念物の桜があり、道路に太い幹や枝を張り出しています。中也も幼い頃に眺めていたのでしょう。
つば甚
“当時まだ金沢には電車はなかつた。ガタ馬車があつた。「ガタ馬車キタキター、ノレノレ」と僕達は歌つてゐた。自動車が一台、(何時見てもそれは黒ずんだ緑色に塗られてゐたから同一の一台だと思ふ)時々「鍔甚」の前にとまつた。それが来ると子供達はみんな走つてその傍に行くのであつた。”
(出典:中原中也「金沢の思ひ出」)
金沢に初めて電車が走ったのは1919年(大正8年)ですから、中也が金沢を去って5年後です。そんな、電車も走っていない時代に、運転手付きの自動車に乗っている人は大金持ちでしょうね。そのような人が来る「鍔甚」とは……。
つば甚(地図❸)は、加賀藩藩祖 前田利家のお抱え鍔師だった鍔家の三代目が始まりという、江戸時代から続く金沢を代表する料亭です。鍔師として鍛えた繊細な手先・指先が料理へと向けられたのでしょう。その精神は今でも脈々と受け継がれています。
室生犀星が、金沢に来た芥川龍之介をもてなしたのも、この料亭です。
hanspotter.hatenablog.com
今では、手軽な値段でランチが経験できます。金沢の老舗料亭の味、雰囲気を味わってください。
神明宮
映画 神明館
「金沢の思ひ出」に「神明館」という映画館が登場します。
「金沢の百年 大正・昭和編」(市史年表)によれば、大正2年(1913年)に泉野神社(現在の神明宮)の境内に神明館という寄席が開館しています。当時の金沢には映画専門館が存在せず、芝居小屋や寄席で映画も上映していたようです。
この神明館は、僅か二年後の大正4年(1915年)に閉館しています。中也が金沢に居た大正元年から大正3年とほぼ被った短い間存在していました。
軽業(サーカス)
神明館のあった神明宮(地図❹)の境内では、中也の言う “軽業が掛かった” ようです。今でいうサーカスの小型版だったのでしょう。
手許に色褪せた文庫本があります。中村稔先生編著「中也のうた」(社会思想社・現代教養文庫)。半世紀ほど前に購入した本です。
この本の「サーカス」のページに「金沢の思ひ出」への言及があります。
このサーカスの思い出が “幾時代かがありまして” で始まる「山羊の歌」の中の「サーカス」の詩となったようです。
“ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん”
「サーカス」より
(出典:中原中也「山羊の歌」)
中也の通った幼稚園
思い出の幼稚園
中也は寺町の住居から金沢21世紀美術館(地図❾)近く、当時であれば兼六園(地図❽)近くの北陸幼稚園(地図❼)へ通っていました。
北陸学院幼稚園
“幼稚園は兼六公園の傍の北陸幼稚園であつた。”
(出典:中原中也「金沢の思ひ出」)
この幼稚園は、日本で最初のキリスト教系と言われている北陸学院幼稚園(当時は、北陸女学校附属幼稚園)です。
跡地は金沢ふるさと偉人館になっていますが、入り口横に「北陸学院幼稚園の地」の石碑があります。
この時代、幼稚園に通うことができるのは限られた家庭だったでしょう。流石、軍医(当時の階級は少佐とのこと)の子供ですね。
夏の思い出
中也は昭和7年に金沢に行くと、この幼稚園を訪れています。
”昭和七年に行つた時、幼稚園は早速に見に行つた。(中略)ブランコのまはりは一面のクローバで、僕達はよく花束を作つて遊んだものだ。ともかく門から建物までの花園は昔のまゝであつた。夏草が生ひ茂つて、出たばかりの朝日は露にキラキラ光つてゐた。”
(出典:中原中也「金沢の思ひ出」)
中原中也にとって、幼稚園での思い出は、楽しく、幸せなものだったようです。
兼六園と兼六公園
兼六園(中也の表記では ”兼六公園 ”)は金沢を代表する名所だけに、幼稚園が兼六園の傍であったことなど、幼い中也の記憶にも残っていたようです。
話が飛びます。
兼六園を兼六公園と呼ぶ人をテレビの旅番組などで偶に見かけます。内心、「こいつ、兼六園も知らないのか」と。
中也の「金沢の思ひ出」でも、”兼六公園 ” となっています。
ん? 中也まで ”兼六公園 ” ?
自称 中原中也ファンの私。確認したところ、石川県立歴史博物館のウエブサイトに記述がありました。
1874年(明治7年) 5月に一般に開放された後、1924年(大正13年) 3月の旧称(兼六園)復帰までの50年間は、 ”兼六公園 ” が正式名称だったそうです。
中也が金沢に居たころは ”兼六公園 ” が正式名称でした。中也は正しかった。
知らぬは私だけ・・・。
ただし、兼六園という名称に復帰してから既に100年近く。従って、旅番組で兼六公園と宣う人は、やはり、「こいつ、兼六園も知らないのか」です。
話を戻します。
”兼六公園で驚いたのは、大和武尊の銅像であつた。そいつを僕はすつかり忘れてゐた。然し、それが朝の空に聳り立つてゐるのを見付けた瞬間、愕然と思ひ出した。それからその銅像の下に行つて休んだが、涙が出て来て仕方がなかつた。”
(出典:中原中也「金沢の思ひ出」)
実は、私も幼い頃に見た日本武尊像(中也の表記では ”大和武尊の銅像 ”)に、中也とは違った思い出があります。私の場合は違和感でした。Google マップの「明治紀念之標(日本武尊像)」に以前口コミを投稿したことがあります。ご参考までに下記に記します。
”幼い頃、兼六園は無料で開放され、贅沢な抜け道でした。
近くを通る度に、この像に違和感があったことを憶えています。
子供心にも、この銅像が兼六園の風景に馴染まないと思っていたのでしょう。齢を重ねた今でも兼六園の風景にはそぐわない像だとの違和感はあります。
明治13年、西南戦争で戦死した石川県出身軍人の慰霊のために明治紀念之標が兼六園内に建てられました。
建立に際しては明治天皇や旧加賀藩主の前田家からも多額の寄付が寄せられたとのことです。
その中央に位置するのが、高さ5.5m、重さ5.5トン、日本最古の銅像とされる日本武尊像です。
当時は、金沢県やら富山県やら、編入・分県でゴタゴタしていた時代のため、金沢の鋳物師と高岡の鋳物師の間で請け負い合戦があったようです。結果的には高岡の名工 金森藤兵衛が造りました。
そういった経緯もあり、金沢では、兼六園に不釣合いな像だとの声がかなり多かったとのことです。恐らく私の違和感は、こういった話にも影響されているのかも知れません。
その後、全国の金物が強制供出された太平洋戦争時でも供出を免れ、戦後の進駐軍の撤去命令にも平和を願う“仏”であるからと抵抗して現在に至っているとのことです。最後にこの像に関したトリビアを一つ。
「この像には鳩や烏が近寄らない。鳥のフンの跡がない。鳥も恐れ多くて近寄らない」という都市伝説がありました。
これに注目した金沢大学の廣瀬教授が、銅像の成分を分析して鳥の嫌がる電磁波が発生していることを突き止めました。そして、鳥が近寄らない合金を開発し、2003年に「イグ・ノーベル賞」化学賞を受賞しています。”(引用:Hans Potter名でGoogle マップへ投稿した口コミ)
通園路
”行きも帰りも犀川橋を渡らなければならなかつた。渡つて一寸行つて右に廻る。すると其処に自転車屋があつて大きな犬が飼つてあつた。そいつが怖かつた。雪溶の日は犀川橋を渡るのも怖かつた。その水の音は、今でもハツキリ覚えてゐる。”
(出典:中原中也「金沢の思ひ出」)
寺町の住居から幼稚園までは直線距離では700~800mですが、実際に歩くとなると1.3km以上でしょう。中也が住んでいた寺町は台地ですから坂道です。途中、犀川を渡ります。幼稚園児にはキツイ道中です。
犀川橋!?
通園で渡っていた “犀川橋” は、犀川大橋(地図❺)? それとも桜橋(地図❻)? その頃は両方ともまだ木橋です。距離で考えると桜橋ですが、
“渡つて一寸行つて右に廻る。”
(出典:中原中也「金沢の思ひ出」)
とあるから犀川大橋でしょうね。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1990/14/0/14_0_199/_pdf
自転車屋
また、その後に ”すると其処に自転車屋があつて” と文が続いています。金沢で最も開業が古い石野自転車商会が旧 石浦町(現在の片町1丁目、香林坊1,2丁目)にあったそうですから、やはり犀川大橋に間違いないと思います。
因みに石野自転車商会の創業者は、北陸学院創設者の伝道師、トマス・ウィンから自転車修繕法等を習ったとのことです。中也の通った幼稚園が北陸学院幼稚園ですから、何かの縁を感じます。
尚、トマス・ウィンが1888年(明治21年)に建てたウィン館は、現在も残っています。
1961年の映画「ゼロの焦点」では、社長宅という設定でした。
金沢での幸せな思い出
雪の思い出
“幼年時 私の上に降る雪は 真綿のやうでありました…”
「生ひ立ちの歌」より(出典:中原中也「山羊の歌」)
“汚れつちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる…”
「汚れつちまつた悲しみに……」より(出典:中原中也「山羊の歌」)
詩集「山羊の歌」を読み返すと感慨深いものがあります。
幼少期の金沢では真綿のように思えた雪が、弟の死や勉学上の挫折などを経験し、徐々に…。
金沢も最近は積雪量が減っていますが、中也の暮らしていた頃の金沢は、正に ”雪国” だったと思います。父親の前任地が広島ですから、金沢の雪の多さには驚いたと思います。
そんな金沢の雪も、中也には、
“幼年時 私の上に降る雪は 真綿のやう”
「生ひ立ちの歌」より
(出典:中原中也「山羊の歌」)
に思えたようです。
幼い頃の金沢の思い出
中也は1937年(昭和12年)に亡くなりますが、「金沢の思ひ出」は1932年(昭和7年)に金沢を訪れた時の話で、亡くなる前年の1936年に掲載されています。
金沢を訪れた1932年と言えば、初の詩集「山羊の歌」の出版を計画するも資金が足りず、ノイローゼになっていた時期のようです。
そんな時期にわざわざ訪ねた金沢。幼い頃の友人たちとの思い出、雪の思い出、幼稚園の思い出等々。中也にとって、金沢での思い出は、楽しく幸せなものだったようです。
金沢での生活は2年余りでしたが、30歳で亡くなった中也には掛け替えのない思い出が残っている金沢。だからこそ、訪ねたい金沢だったのでしょう。
そして香林坊へ
そんな金沢で安心したのか、中也は金沢の繁華街 香林坊(地図❿)へ繰り出し、
“とにかくそれから香林坊にゆき、僕はヘベレケになつてしまつた。”
(出典:中原中也「金沢の思ひ出」)
と結んでいます。
中也の幸せな時代
金沢で所縁の地を訪ね、中也の幸せな時代に思いを馳せるのは如何ですか。