生誕150年
泉鏡花は、今年(2023年)11月に生誕150年を迎えます。
グレーテルのかまど 泉鏡花とくるみのあめ煮
今年(2023年)の1月16日にNHK Eテレで放送された「グレーテルのかまど」。
地元金沢出身の泉鏡花と、好物のくるみのあめ煮を題材にした番組でしたので、放送直後にPartⅠ、PartⅡと連続してブログに取り上げました。
PartⅡで「孫が近づいてきましたので、PartⅡはここまで。PartⅢに続きます。」と結んで早半年。
暦の上では秋になっていました。
番組で語られていた、鏡花にとってターニングポイントとなったくるみのあめ煮。
半年ぶりのPartⅢで、くるみのあめ煮がターニングポイントとなった秘密を探ります。
泉鏡花の若かりし頃
何故くるみのあめ煮が泉鏡花のターニングポイントとなったのか。
それを知るために泉鏡花の若かりし頃を少し。
尾崎紅葉への弟子入り
実家の焼失、そして父の…
上京して2年後、19歳の時に金沢の実家が火事で焼失。
更にその2年後、21歳の時に彫金師(錺職人)であった父が亡くなり、鏡花は一家を支えるために帰郷することになります。
二十歳そこそこで一家を支えることになった鏡花は悩んだでしょうね。
21歳のこの年に「義血侠血」を新聞に連載していますが、新進作家として認められた「夜行巡査」、「外科室」の発表は翌年の1895年、22歳の時です。
まだ作家では生活できず、精神的に追い詰められた鏡花は金沢城の百間堀への身投げまで考えたそうです。
百間堀
鏡花が身投げを考えた百間堀は金沢城のお堀です。
長さ約270m、幅約68.4m、水深約2.4mのお堀で、金沢城の守りの要でしたが、明治43~44年(1910〜1911年)に埋め立てられて道路となりました。
百間堀の変貌
百間堀の変化です。
現在の人気観光スポット、石川門と石川橋が変貌を見つめていました。
救いの手
目細てる
そんな鏡花を思い止まらせたのが、又従姉妹(父方の親戚)の目細てるでした。
鏡花の同級生ですが、13歳で結婚し、気風の良い目細てるを鏡花は「姉さん」と呼んで信頼していたとのこと。
目細針店
目細てるの実家、目細家は目細針店。
現在も金沢市で針、裁縫道具、釣り針、アクセサリーなどを商っている目細八郎兵衛商店は、天正三年(1575年)創業の老舗です。
目細八郎兵衛商店前の通りは「目細通り」。流石、老舗です。
元々は縫い針のお店ですが、明治に入って鮎釣りが庶民に解禁されてから毛針も作り始めたとのこと。
目細家の支援と くるみのあめ煮
目細家の支援で鏡花は再度上京。
その時に目細家から手土産として持たされたのが くるみのあめ煮でした。
それが東京で好評。
目細家へ当てた礼状には、
”くるみは非常に評判よろしく(そりゃ金澤に限ります)と大威張りにいばり候”(出典:番組より)
と認められています。
”胡桃いつもあり。一寸煎つて、飴にて煮る、これは甘い(㊟うまい、と読みます)。(出典:寸情風土記)”
と、くるみの記述があります。
ターニングポイント
目細家の援助を受けて再度東京へ行き人生の危機を乗り越えられた。
くるみのあめ煮は鏡花にとって忘れられないものだったのでしょう。
くるみのあめ煮は、作家としてやっていく決意、ターニングポイントとなった、そして鏡花を支えてくれた故郷の人々との絆を表す大切なものだったようです。
金沢への思い「寸情風土記」
そんな故郷金沢。
先程の随筆「寸情風土記」には故郷、金沢への鏡花の思いが溢れています。
”金澤の正月は、お買初め、お買初めの景氣の好い聲にてはじまる。(出典:寸情風土記)”
から始まり、金沢の四季折々の風習、食べ物、町名などを記して金沢を懐かしんでいます。
”新堅町、犀川の岸にあり。こゝに珍しき町の名に、大衆免、木の新保、柿の木畠、油車、目細小路、四這坂。例の公園に上る坂を尻垂坂は何どうした事?…(出典:寸情風土記)”
また、
との記述があります。
泉鏡花の故郷金沢は地震の少ない土地です。そのため鏡花にとって東京は地震の多い所だったんでしょうね。
実際私も東京に住んでいた頃は揺れを感ずることが多かったですね。そのうち慣れましたが。
関東大震災は大正12年(1923年)ですから、この随筆「寸情風土記」の三年後です。さぞかし度肝を抜かれたことでしょう。
くるみのあめ煮を食しながら「寸情風土記」を読んで、泉鏡花の金沢への思いを知るのは如何でしょうか。
金沢の懐かしい地名などが出てきます。
短い随筆です。金沢在住の方も是非。
歌舞伎の坂東玉三郎さんの泉鏡花への思いや、泉鏡花文学賞についても触れたかったんですが字数が増えました。
また別の機会に。