金沢駅 人気の観光スポット・ロケ地
2005年にもてなしドームや鼓門が完成してからは、金沢駅は映画・テレビに毎日のように登場しますし、鼓門は人気の撮影スポットになっています。
世界で最も美しい駅14選
2011年には、日本国内で唯一 Travel & Leisure 誌が選んだ “世界で最も美しい駅14選” に選ばれています。
ブログ「ダンスで巡る金沢 DANZA IN KANAZAWA」の「金沢駅」にも書きましたが、もう一度…。
美しい駅に選定された理由
美しい駅に選定された2011年は、北陸新幹線の開業前です。新幹線開業効果とは関係なく “美しい” と評価されたものです。
“美しい” という評価の大部分は、鼓門ともてなしドームによるものでしょう。
特筆すべきことは、“世界で最も美しい駅14選” に選ばれた駅、例えば、アントワープ中央駅の駅舎は1905年に完成したネオ・バロック様式、また、セント・パンクラス駅は1868年開業のネオ・ゴシック建築等々、1800年代から1900年代早々に建設された駅ばかりです。それも、ネオ・バロック調やらゴシック調やらオリエンタル風やらコロニアル様式やら、如何にも西洋人好みの駅ばかりの中、唯一、最近建てられた純日本風な鼓門の金沢駅が選ばれたのは、自慢すべきことではないでしょうか。
日本人の感覚からすれば東京駅や京都駅なども立派な建物ですが、いかにも西洋っぽい建物のため、選定した西洋人には見慣れた普通の駅舎と映るのかも知れませんね。
情報番組や旅番組では、出演者が鼓門の前に立ってスタートするのが定番になっているようです。
先ずは、金沢駅をロケ地にした映画、ドラマ、そして漫画のシーンをどうぞ。
鼓門
2016年の映画「カノン」でミムラさんが喪服で鼓門前を駆けています。
2018年に放送された「99.9 刑事専門弁護士(SEASON II)」では、松本潤さんが鼓門前を横切っています。
鼓門を見て一目で金沢だと分かる方も多いと思います。
駅舎
鼓門後方の駅舎寄り “金沢駅” の文字が写っている場面では、やはり「99.9 刑事専門弁護士(SEASON II)」の木村文乃さんと片桐仁さんが、資料の入った箱や手提げ袋を重そうに運んでいるシーンがありました。
2017年の映画「ママ、ごはんまだ?」で、一青窈さん役の藤本泉さんが「いいなぁ、お寿司」と言っているシーンも駅舎の前ですね。
もてなしドーム
「ママ、ごはんまだ?」の白羽弥仁監督は、2008年の映画「能登の花ヨメ」でもメガホンをとっておられます。制作の途中で能登半島地震が発生し、脚本の見直しなど、ご苦労があったようです。
題名のとおり石川県の能登が舞台ですが金沢駅のシーンもあります。
映画のこのシーンでは、駅に隣接するバスターミナル方向から もてなしドームを撮っています。珍しい方向からのショットだったので記憶に残っています。
水時計
「99.9 刑事専門弁護士(SEASON II)」では、金沢駅の水時計前で待つ松本潤さんのシーンがあります。この水時計をバックに写真を撮る観光客も多く、人気の撮影スポットのようです。振り向けば鼓門ですし撮影には良い場所です。
石川県立音楽堂
有村架純さん主演の2013年の映画「リトル・マエストラ」では、金沢駅に隣接する石川県立音楽堂でのロケです。
ここはオーケストラ・アンサンブル金沢の本拠地で、金沢らしい邦楽専用のホールもあります。
ラ・フォル・ジュルネ金沢から発展した 風と緑の楽都音楽祭の主会場でもあります。
江口寿史さんの描く金沢駅
それと実写ではありませんが、私の好きな江口寿史さんの「江口寿史の正直日記 金沢日記2」にも鼓門やバスターミナルが登場します。
Twitter(江口寿史@Eguchinn)に書かれていましたが、
“金沢駅くそめんどい。あとはパソコンの中で描くよ。正直日記文庫版の描きおろし漫画、ペン入れ完了しました。”
とのことです。確かに鼓門は複雑な形ですね。
内部には再利用のため、雨水を集めるための配管があります。観光客で配管まで見ている方はいないでしょうね。
話が少し飛びます。
江口寿史さんが “ココロの師匠” と呼ぶ、山上たつひこさんが金沢在住です。そのため、江口寿史さんは何度も金沢を訪れているようです。
全国を巡回中の「彼女」展も金沢からスタートしています。
詳しくは下記のブログで。
金沢駅の移り変わり
停車場の完成
金沢に停車場が出来たのは1898年(明治31年)のことです。
駅を停車場と呼んでいる人は、流石に私の年令でも見たことがありません。
1971年の奥村チヨの「終着駅」には
“落葉の舞い散る停車場は(出典:「終着駅」、作詞:千家和也)”
という歌詞がありました。何故か覚えています。停車場という言葉が珍しかったのか…。
当時の絵葉書にも(金澤)停車塲前と印刷されています。
金沢駅の建設予定地
金沢駅の建設にあたっては、当初の建設予定地として、
①宗叔町(現在の玉川町、芳斉。住んでいた医師 堀宗叔の名前が町名の由来)、
②三社、
③広岡、
の三案があったようです。
下の地図で三つ並んだ楕円の網掛け部分が当初の建設予定地です。並んだ楕円の右から左へ①、②、③となります。
(最終的には長方形の網掛け部分に駅が建設されました。)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalcpij/33/0/33_397/_pdf
建設予定地の問題点
予定地の問題点がありました。①の宗叔町は市の中心部には近いが人家が密集していて買収費用が高額となる。②の三社は土地に高低差がある。③の広岡は市街から遠すぎる。ということで、平坦で土地の安い現在の木ノ新保になったようです。
確かに①だったら、現在の人気スポット 武家屋敷エリアにも影響があったと思います。
しかし、②の三社に高低差があったというのは今では実感できません。現在では埋め立てられたり崩したりされた惣構(堀や、堀の城側に土を盛り上げて造った土居などの防御施設)があったのでしょうか。更には、③の広岡が市街から遠すぎるというのもピンときませんが、当時は徒歩が基準ですから現代とは感覚が違うのでしょう。
当時の金沢駅周辺は、金沢の外れ。蓮や蓮根の池もある湿地だったようですから、買収価格も安かったことでしょう。
今では石川県内どころか、新潟、長野を含めた北信越5県の県庁所在地の駅近辺では最高値の地価です。
当時の金沢駅周辺
金沢駅が建設されたのは当時の金沢市街地の端っこです。藩政時代もっとも遅く開発された場所で、道路の形態も乱れていたようです。
確かに、江戸時代の地図を見ると金沢の市街は狭く、現在の金沢駅周辺は極めて大雑把に描かれています。宮越(現在の金石)の港までは殆ど百姓地という表現です。
下の地図では現在と同じ地名を見つけることができます。
地図で見る変遷
明治42年と昭和5年の地図
明治42年や昭和5年当時の地図には、今では人口密集地となっている市街地に汚物処理場や火葬塲が点在しています。
明治どころか昭和の時代になっても金沢の市街は狭い範囲だったようです。
駅周辺は人家も少なく、大規模な工事もやり易かったと思います。
金沢駅前を経由する現在の主要道路、東大通りと昭和大通りはありません。
金沢駅から武蔵ヶ辻を直線で結んでいる金沢駅前通りは影も形もありませんね。
昭和43年、昭和58年、平成12年の地図
昭和43年の地図では東大通りと昭和大通りが出現。
昭和58年の地図でも、まだ金沢駅前通りはありません。平成12年の地図で漸く……。
これらの道路の計画は、明治期から紆余曲折があったようです。
昭和43年の地図には新神田1丁目(地図の左下)に競馬場とあります。
現在の新神田小学校や高岡中学校の場所です。
昭和43年当時の金沢市の人口は34万人。現在より12万人ほど少ない人口ですから、まだまだ土地に余裕があった時代のようです。尚、競馬場は昭和48年に移転しました。
駅舎の変遷
中原中也の降り立った駅舎
大正元年(1912年)から2年ほど、詩人の中原中也は幼少時に金沢に住んでいました。この時の金沢での思い出が、後々、中也の詩に影響を与え、中原中也の詩の原点とも言われているようです。
先ほどの停車塲の絵葉書には電車が写っています。
金沢に初めて電車が走ったのは1919年(大正8年)。中也が金沢を去って5年後ですから、中原中也の降り立った金沢駅はこちらの写真の頃でしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/金沢駅#ギャラリー
泉鏡花や室生犀星が利用した駅舎
金沢出身の作家、泉鏡花や室生犀星が利用したであろう金沢駅は、1933年当時の この写真の駅でしょうね。もちろん私は知りません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/金沢駅#ギャラリー
戦後の駅舎
この次の代の駅舎から映画に登場します。(あくまで私の観た範囲ですが)
1961年の映画「ゼロの焦点」に金沢駅が登場します。
この駅舎は私が一番利用していた時代の駅舎です。東京への往復です。勿論、新幹線ではありません。
話は再び飛びます。
私が利用していた頃は寝台「特急」に格上げされていました。
金沢発も上野発も21時頃に発車して翌日の早朝に到着でした。一度だけ、目が覚めたらまだ新潟県内だったことがあります。大雪のせいでした。
金沢駅西口の変遷
花咲くいろは
2011年に放送されたアニメ「花咲くいろは」には、モダンな金沢駅西口(金沢港口)が登場しています。
金沢駅西口が出来たのは1985年
ところが、一世代前の金沢駅の時代、私には金沢駅の西口(現在の金沢港口)の記憶がありません。西口方面の金石や内灘へ行った記憶はありますが…。
駅構内の連絡通路も全く記憶がありません。
こんな写真をネットで見つけました。1988年(昭和63年)、30年前の金沢駅西口です。
https://beauty-hokuriku.com/p/kanazawa-20150314
調べたところ、1898年(明治31年)の金沢駅開設以来、西口が初めて出来たのは写真が撮られた3年前の1985年(昭和60年)だとのこと。
この年に石川県で開催されたインターハイに合わせて開設されたようです。
西口が “駅裏” だった理由
地盤の弱さが原因!?
金沢駅自体が当時の金沢の外れの湿地に建設されました。
金沢駅より更に西、現在の西口方面は蓮根畑などの軟弱な地盤が多く、地盤の比較的しっかりした場所にのみ集落が点在し、宅地化は遅れていたようです。石川県庁舎の工事も、基礎工事に多額の金額を費やしたと聞きました。
金沢駅西口方面が長い間「駅裏」と呼ばれていた理由の一因でしょうね。
「金沢市液状化危険度予測図」を見ると、液状化の危険度が高い場所(濃いピンク色の部分)は西口方面に集中しています。
確かに、地盤マップで調べると、地形が「盛土地・埋立地」、地震で「揺れやすい」、液状化の可能性が「やや高い」所が多いようです。
実際、地震速報の震度が、金沢駅東口方面で感ずる震度と感覚的に相違することが多く、恐らくは金沢地方気象台が地盤の軟弱な金沢駅西口に立地することが要因ではないでしょうか。
地盤マップで西口方面の建物近辺を調べたので、ご確認ください。
金沢地方気象台付近
駅西消防署付近
金沢税務署付近
石川県庁付近
金沢を舞台にした白石一文さんの小説「一億円のさようなら」でも、
“西口方面は、かつての『城下町金沢』からすれば郊外地ということになるのだろう。”
(出典:白石一文. 一億円のさようなら. 徳間文庫)
との表現があります。県外から訪れた人の正直な感想のようです。
今回は以上です。