美味しい冬の北陸
雪の金沢を訪れた観光客には、カニ、ブリ等々の美味しい北陸が待っています。
兼六園の雪化粧で目を楽しませた後は、美味しい料理で舌を楽しませてください。きっと、脳も喜びますよ。
かぶら寿し
北陸には数多くの冬の味覚がありますが、金沢の正月では冬の料理の定番「かぶら寿し」が食卓を飾ります。
切り込みを入れた「かぶら」にブリを挟んで乳酸発酵させた「なれずし」で、加賀藩では江戸時代の初期には作られていたと言います。
かぶら寿しは高級なブリを使うので主に武士などが食べ、庶民は大根に廉価な鰊を挟んだ大根寿しを食べていたとのこと。そう言えば母が大根寿しも作っていました。
両方とも贈答品として使うことが多かったようです。
若い頃は、ブリは新鮮な刺身で食べることが多く、かぶら寿しや大根寿しを好んで食べることはありませんでしたが、齢を重ねると好物に変化してきました。
一時期は廃れたようですが、グルメ雑誌などで取り上げられ全国的に知られるようになっているようです。そのため多くの業者が作るようになりました。
個人的に好きな かぶら寿し
以下、数多の かぶら寿しの中から私が個人的に好きな三つを挙げます。繰り返しますが、あくまで私の個人的な味覚によるもので、ランキングではありません。
金沢で好きな かぶら寿しを聞くのは、富山で好きな ます寿しを聞くのと同じで、それこそ百人に聞けば百の答えが返ってきます。「なれずし」と「早ずし」の違いはありますが、どちらも北陸を代表する郷土料理です。
かぶら寿しの写真を撮りましたが、上手く伝わるような写真ではありません。各社のHPの写真を使わせてもらいます。
四十萬谷本舗
仕込みの季節になると、店舗裏の駐車スペースにプレハブの建物が現れます。
想像ですが、かぶら寿しの仕込み場ではないでしょうか。毎年必ず同じ時期ですので間違いはないと思いますが。私の中では風物詩になっています。
かぶら寿し、美味しいです。家族が「かぶら寿しの漬け込み体験」に出席したことがあります。でも、材料の仕込みはほとんど終わっていたらしく、家で一から作れと言われてもできないようです。まぁ、家で作っても、あの味は出ないでしょけど。
青木クッキングスクール
名前のとおり料理学校ですが、半世紀を優に超える老舗料理学校の かぶら寿しです。
校長の著書に「金沢・加賀・能登 四季の郷土料理」があります。石川県の郷土料理や風習に造詣が深い方で、加賀藩御料理人(高良健吾さん)と妻(上戸彩さん)を描いた、平成25年の映画「武士の献立」の料理監修もされています。
この料理学校で かぶら寿しを作っていることを知りませんでしたが、知人から かぶら寿しを毎年頂くようになり味を知りました。おせちも美味しいですよ。
よね田
富山県南砺市の会社で、金沢市の大和デパートでも季節販売しています。
今年は買いそびれたので、高岡市の瑞龍寺へ行った帰りに南砺市まで足を延ばしました。同じ富山県ですが高岡からは遠かった。
買うのが目的なら、金沢大学から県道27号線を通った方が近いですよ。富山の福光に出ますから、お店もすぐ近くです。
そう言えば金沢には福光出身者創業の福光屋がありますね。福光も加賀藩ですから当たり前と言えば当たり前のことですが。
長閑な田園風景のなかにお店がありました。新しい製品も多く、試食させていただきましたがこれも美味しい。金沢のデパートへの出品は12月までだそうです。
加賀藩とかぶら寿し
かぶら寿しの産地
Wikipediaによれば、かぶら寿しは
とのことで、加賀藩のお膝元である加賀地方と、ブリが有名な富山県西部(旧加賀藩です)で作られているのは納得ですね。
もっとも、加賀藩当時のブリは、石川県の穴水で揚がったものが主であったようです。能登半島の内浦に面する穴水港は、江戸時代から天然の良港として知られていたようで、波の穏やかな港を出て能登島を過ぎれば、現在の富山湾まですぐです。
加賀藩は意外と広かった
加賀藩ってどこまで?
ここでWikiに追加です。
富山へ行くと、「呉東(富山県東部)が…」、「呉西(富山県西部)が…」という言葉をよく聞きました。
富山県中央部の呉羽山(呉羽丘陵)を分水嶺として、東側が呉東で西側が呉西だそうです。
富山では、呉東と呉西、すなわち富山県東部と富山県西部が競い合っているというか、反目し合っているように感じることが多々ありました。
こういった経験もあり、加賀藩は現在の石川県(加賀・能登)と富山県西部(高岡市側)だと勝手に思っていましたが、実は、平成の大合併前の富山市辺り(旧の富山藩)を除いた富山県のほぼ全域が加賀藩だったとのこと。
従って、Wikiに追加するなら、「能登地方と富山県東部を除く旧・加賀藩の地域で広く作られる。」となります。
呉東(富山県東部)と呉西(富山県西部)
下記のブログ(富山県の西部在住の方が書いているようです)によると、
”よく富山県の二大都市、富山市と高岡市の文化的な違いや方言の違いを、富山藩と加賀藩の歴史に起因するような言説も聞きますが、それを言うなら富山市と魚津市も…ってことになりませんかね。
あるのかもしれませんが、私が高岡方面の人間なので耳に入ってこないだけかもしれませんね。
視点を変えると、意外に富山県のうち富山市(旧婦負郡は平成の合併で全域が富山市に)だけがむしろ特殊、って事例もあったりするだろうなとふと思いました。(出典:Hatena Blog「なまずの尾っぽ(+) :富山・北陸の旧街道と郷土史的な何か」)”
呉東(富山県東部)と呉西(富山県西部)が反目し合っているように感じるのは、明治時代の石川県からの分県時、石川県(金沢市)と比較的結びつきが強かった呉西(富山県西部)と、呉東(富山県東部)では温度差があったからのようです。
石川県が ”人口日本一” だった時代
1877年(明治10年)~ 1881年(明治14年)の間、石川県の人口は180万人を超え、全国の道府県で人口が一位でした。
https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/1167/
この時代、現在の石川県に富山県、それと福井県の一部(旧加賀藩、大聖寺藩、富山藩に福井の一部)を加えた範囲が石川県でした。大石川県の頃です。
https://beauty-hokuriku.com/p/kanazawa-pref
その後、福井県や富山県が分県となり、石川県は現在の形となります。
下記のURLに人口の詳しい記載があります。
金澤縣(金沢県)構想
分県運動により北陸三県に分かれましたが、1903年(明治36年)頃の明治政府には、 大石川県を上回る規模の金澤縣(金沢県)構想まであったようです。
大石川県時代の旧加賀藩、富山藩、大聖寺藩、福井の嶺北の他に、岐阜の飛騨地方を含めた金沢県構想です。
構想段階でストップし実現しませんでしたが、詳細な地図も作成されています。
全国で、幾つもの県が消えています。
美味しい北陸
北陸の冬の味覚はカニやブリだけではありません。郷土料理も是非味わってください。
北陸は美味しいですよ。