歌劇座の建て替え
地元紙 北國新聞 朝刊の “歌劇座 建て替えへ” の見出しが目に飛び込みました。
私の年代では「歌劇座」なぞという大仰な名前より「観光会館」の方がしっくりくる建物です。
「あぁー、観光会館もか…!」との思いが胸を過りました。
金沢市営総合プールが解体され、現存するものでは日本最古だった飛び込み台の消失を目の当たりにしたばかりです。次々と思い出が消えていきます。
地元紙の1面トップになるくらいです。
金沢市民には色んな思い出がある「観光会館」ではないでしょうか。
観光会館の思い出
昭和37年(1962年)竣工です。
昔から金沢に住んでいる方は、観劇や鑑賞、さらには御自身の出演などで何度か訪れたことがあるのではないでしょうか。
半世紀以上の年月が経過していますので、改修したとは言え、当然、施設・設備は古くなっていますね。
初舞台
私の初舞台もここでした。合唱コンクールで緊張して舞台に立ったことを憶えています。舞台から見た客席は意外に暗く、最前列くらいしか見えなかったような…。それとも小学生の私には緊張のあまり見えなかったのか。
高校時代
高校ではギターを抱えて舞台に上がりました。
舞台の袖から前の出演者の演奏を見たり、開演前に建物入口前に並んでいる人を内側から眺めて妙な優越感を感じたりと、小学生の頃とは随分違う経験でしたね。
今では懐かしい思い出です。
ウィーン・フィルの思い出
舞台には複数回立ちましたが、観劇や鑑賞にも何度も訪れています。
ウィーン・フィル金沢公演
今から40年以上前の1977年に、カール・ベーム率いるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の日本公演が全国8 都市(札幌・新潟・金沢・東京・名古屋・大阪・広島・福岡)で催されました。
多くの大都市に金沢を加えた全国8都市の公演です。地元放送局の開局25周年記念事業でしたので力が入っていたのでしょう。残念ながら高齢のカール・ベーム(この日本公演の4年後の1981年に亡くなりました)ではなく、クリストフ・フォン・ドホナーニが指揮者でしたが、ワクワクして当日を待ちました。
演奏終了後の出来事
当時の金沢はクラシック音楽との付き合いがそれほど一般的ではなかったと思います。
このウィーンフィルの公演で、最終楽章が終わって割れんばかりの拍手。指揮者がいったん下がります。
そこまでは良かったのですが、素晴らしい演奏の余韻に浸る観客の横で半分ほどの人たちが席を立ちました。まだ薄暗いままの会場なのに、まるで映画が終わった後のように。
その後、指揮者が舞台に現れお辞儀をしたのですが、指揮者はゾロゾロと帰っていく人たちの後ろ姿を見て、どう感じたのでしょうか。
社会人になって間もない若造の私でさえ、ある程度のマナーは知っていました。金沢の人間としてとても恥ずかしかったことを憶えています。
昔の金沢、現在の金沢
40年ほど前の金沢はこういった感じでした。当時の金沢は、古い伝統に固執し、それ以外のものには馴染もうとしない人が多い町でした(今でも時々見受けますが)。
歌劇座の近くにある金沢21世紀美術館設立時にも、かなりの抵抗があったとのことですから、当時と同じ考え方の方は、まだまだいらっしゃるようです。
大切な思い出
会場では色々ありましたが、レコードでしか聞いたことのないウィーンフィルを生で聞けたのは大切な思い出です。40年ほど前の若造には大金だったチケットの半券とコンサートプログラムは今でも大切に保存しています。
消えていく思い出たち
大学入学以降は金沢を離れていました。
何十年ぶりかに戻ってきた金沢を楽しんでいますが、毎日のように思い出の建物が消えていきます。